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自分の生い立ち3(吃音克服)

I先生との出会い
I先生も私と同様吃音で悩んだ体験の持ち主です。
愛媛県の網元の息子で家は裕福だったと聞いております。
師範学校に入学したけれど吃音のため苦労されたと聞いております。
近くの海岸から飛び込もうと何度も思ったらしいです。
しかしその時いつも海の中から母の顔が思い浮かび止めたらしいです。
大阪の小学校に就職し教育者の道を歩まれました。
2010年3月に教え子と会われ勉強会をいたしました。それも病院の待合室です。
80代の高齢の先生と70代の生徒の組み合わせです。
その生徒さんがI先生の授業が忘れられずインターネットで探したということでした。
勉強会の内容は私がI先生に出会った40年前と同じ内容です。
おそらくその生徒さんも小学校時代同じ授業を受けられたのではないかと思います。
一言でいえば一人ひとりを活かす教育です。
子どもの可能性を信じ、持ち味(個性)を引き出す教育です。
そして教育手法は先生の感化力です。
先生自身が実践したことしか生徒に伝わらないことです。
吉田松陰の松下村塾のようなものかと思っております。
I先生の特徴は、I先生がお世話した吃音で困っている短大生が焼身自殺をしたのを新聞で知ってI先生の人生が変わったのではないかと思います。
それからは家族を捨てお釈迦様の心境で吃音の方と共同生活を始められました。
その時私は吃音者の集まりの名古屋言友会でI先生と初めて出会いました。
大学2年の時だったと思います。社交ダンス部で空しさを感じ、吃音に対する将来不安、自分で開いた話し方教室の運営とかいろいろなことで悩んでいた時だと思います。
I先生のお話を聞いていると今までの自分のもやもやが雲が消えるようになくなり人生で初めて味わったようなすがすがしい気持ちになったことを40年後の今でも覚えています。
色々な悩みがありますが心の問題が大きいのではないかと思います。
一時的な安心かもしれませんがそこに真理があるような気がしました。
人のために本当に尽くされている方の感化が悩んでいる相手に通じその悩みを取り除くのではないかと思います。
古今東西の本当の宗教家はそのような人ではないかと思います。
一瞬ではありますが吃音にたいするとらわれがなくなりました。
もちろんすぐに現実にかえるとまた悩みが出てきますが、そのとき学び体験した自分の考え方をいつも身につけることができれば、吃音を克服したと思います。
私の場合はどもっているときの自分の気持ちを深く反省することでした。
恥ずかしいとか、早く逃げ出したいとか、すべて自分中心な心の発想です、私は電子工学を学びコンピュータに40年間かかわっております。コンピュータも根本は1か0の世界です。
人間も神経(ニューロン)で動いておりいわゆる、電気で動いていますので+か-のどちらかが動いているのが根本ではないかと思います。
今の瞬間自分をまもる自分中心に向いているか相手のことを思いやる相手中心にむいているかのどちらかではないかと思います。
どもって悩んでいる時の自分は自分中心に心が向いています。
そのときこそ自己反省できるチャンスです。
人間の成長とはどれだけ相手のことを思いやれるかにあるかと信じています。
20年以上コンピュータの会社を経営しておりますといかに相手のことを思うことが難しいかを痛感しております。
利害のぶつかり合いをどのように対処するかです。少し油断すると気づかぬうちにずるずる倒産の道に向かいます。
相手のことを思っていると商売では負けますが本当の商売は相手のことを思いやらないと信用がつかず商売は続きません。
あたりまえのことですが相手のことを本当に思いやることは至難の業です。
ところがどもるたびに、自己反省できる心のバロメータをもらったので、私の信条である
ピンチをチャンスにはそこから出てきております。
電話でつまってもありがとうございます。
人前で上手くしゃべれなくともありがとうございます。
吃音を克服するポイントは感謝の心ではないかと思います。
それは真理、かわらない法則ではないかと思います。
I先生はモラロジーという学問から学ばれたと言っております。
私はコンピュータの世界とI先生の感化から学ばせていただきました。
次回は何故外資系のコンピュータ会社をやめて登校拒否の方をお世話する仕事にかわったのかというお話をさせていただきます。
すごい体験をさせていただいておりますので期待しておいてください。
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自分の生い立ち2(小学校から大学まで)

吃音の思い出
私の人生と切り離せられないのは吃音(どもり)の体験です。
幼児のころ人より早くしゃべったらしいです。
小学校4年ぐらいの時全校の前でうさぎを育てた発表をしました。
私は何も覚えていませんが、2つ上の姉が弟がどもるのを聞いていて非常に恥ずかしかったと話していました。
また生徒会にも立候補しました。
おそらくどもりにたいして恐怖感も嫌悪感も持っていなかったのではないかと思います。
しかしそのころからまわりの友達からからかわれるようになっていました。
でも成績がよく学級委員長にもなっていたのでそれほど気にしていなかったです。
でも周りが気にしていて、母に連れられて放課後言葉の教室にかよいました。
その後民間の吃音教室を紹介してもらい、夏休みほとんど毎日母と一緒に通っていたことを思い出します。
家で洋品雑貨の商売を父と母がしていたのでよく毎日連れて行ってもらったと感心しております。
毎晩鏡の前で発生練習をしていました。
そのころからどもりが悪いものだという思いを強く持つようになってまいりました。
そしてどもってはいけないという気持ちが強くなってきました。
人間の心理は思いと逆の方向へいきます。
どもらまいと思えば思うほど言葉が出にくくなるのです。
特に最初の言葉がでないのです。
どもりの体験者であればよくわかると思います。
だんだんとひどくなり本の朗読も満足にできなくなり、出欠のはいという返事も困るようになってきました。
信じられないことですが、中学1年になって3年生の卒業式で全員が名前を呼ばれて元気よくはいという返事をすることを知ってからまだ2年先の自分の姿を想像して心配するありさまです。
電話をとってもしもしという最初の言葉がでずにしばらく無言のあと受話器をおろしてしまい、そのあと電話恐怖症になったこともありました。
中学・高校と思春期にはいるとその傾向はますます強くなっていきました。
親に内緒で、夕方、催眠療法の先生に相談に行き、親の承諾がないと教えれないといわれて暗い中ひとりで帰宅したときもありました。
また、小学校の時に通った吃音学校に、夜間だまって通っていました。
男女共学の公立高校の受験に失敗し、男子校の私学に進学したことは幸いでした。
おそらく共学であれば女性を意識しもっと悩んでいたのではと思います。
朝の出欠の返事がいやでわざと遅れていって遅刻になりあとで惨めな気持ちになったこともありました。
でも少し成績がよかったことと、楽観的な性格のためおもうほど悩んでいなかったのではないかと思います。
もうひとつ大事なことは、どもりの人を救おうという気持ちが強かったこともあります。自分が克服していないのに何を生意気なと思われますが、自然とそのように考える性格が備わっていたのではないかと思います。
その当時地元の大阪大学の歯学部がそれに近いことを教えていると思い何度も受験しましたが力が及ばず失敗し、名古屋の工業大学へ進学しました。
生まれて初めて親元から離れて開放的な気分になりました。
今まで男子ばかりの学校だったため、クラブは社交ダンスクラブにはいり青春を楽しもうと思いました。
しかし運動神経、音楽のセンスがまったくないため、競技会にでても相手のパートナーに迷惑をかけたり、ダンスパーティにいっても自分の心の中の大阪弁で言うええかっこしのためまた悩んでしまいクラブをやめました。
なんとかどもりをなおしたい一心で中日新聞主催の話し方教室に参加したこともありました。
また近くの図書館の集会所をかりて話し方教室を自分で開催もしました。
近くの電柱にビラをはり、新聞の無料の案内欄に掲載してもらいかなり活動的であったと思います。
また瀬戸市に車いすで参加できるキャンプ場を作る話があり、毎週土日ボランティア活動をしていました。
このようなエピソードがありました。
キャンプ場に参加すると問い合わせがかなりあり新しい人も参加されてますよということでした。
実は私が当時愛知県で有名な深夜放送の番組に案内の投書を出したのを呼んでもらっていたのを知らず寝ていたのでわからなかったのです。
そこの責任者から吃音の全国的なあつまり言友会があることをを知り参加させてもらいました。
そこで私のそれ以降の人生に大きな影響を与えたI先生と縁がありました。
次は吃音が治っていった過程とそれに関連して登校拒否のお子さんと共同生活をしながら
生計を立てていったお話を書きます。

自分の生い立ち1(小・中・高校編)

昭和26年(1951年)大阪市の下町西成区の天下茶屋でうまれました。
私が生まれた年に両親は洋品雑貨店大和屋を開業いたしました。
父が奈良の大和出身だから大和屋と名付けたようです。
大阪の本町(大阪の繊維問屋街)に仕入れに行き店で商品を並べていたらしいです。
商品が少ないために、大きな板の上にパラパラと並べていました、その中に私も一緒に並べられていたそうです。(ベッド代わり)
父は実家が薬の売薬をしていたので大阪のお客さんを回り、薬だけでなく洋品雑貨の注文ももらっていました。
母はその間一人で私と2歳の姉の子育てをしながら店番をしていました。
その当時の日本は物があれば売れるという時代で、近くに市場、郵便局の本局、工場があり、給料日大体月末でしたがその日は店が満員でした。
大みそかは2日ぐらい店を閉めずに徹夜で開いていた時もあったそうです。
少し自己資金があり、一生懸命努力すればそこそこの財産を蓄えることができた古き良き時代だったと思います。
近くの花園商店街ではイズミヤが生まれていますし、おそらくダイエー・ジャスコ等もその当時うまれた企業ではないかと思います。
小学校の私でも店の隣に段ボール箱をおきその上に500円のジャンバーを並べて売っていました。
両親とも上級学校へは行けなかったため子供に夢をたくそうと努力していたと思います。
お金に余裕があったため姉は、習字・お茶・お花・バレー・ピアノ・家庭教師等々あらゆるおけいこごとをしていました。
特に母は両親が早くなくなったため祖父祖母に厳しく育てられ、つぎのようなエピソードもあります。
小学校の時、勉強していたら女に学問はいらないといわれ学童カバンを庭に捨てられたと言っていました。
そのため長男である、私に対しては教育ママだったと思います。
学校から帰ってくるといつも母が採点したドリルを毎日させられていました。
そのおかげで小・中学は成績も良かったです。
但し私の通った小・中学校は大阪でも指折りの成績の悪い学校でした。
区域にはあいりん地区があり、勉強どころか生活に困っている方が多い地域でした。
その中で家庭に恵まれ勉強すればほとんどだれでも成績がトップになれる学校でした
プロフィール

Author:浅井良一
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